山本周五郎

 お孝はときどき自分が恥ずかしくなる。鏡に向っているときなど特にそうだ。 「――まあいやだ、いやあねえ」  独りでそんなことを呟いて、独りで赤くなって、鏡に写っている自分の顔を、一種の唆られるような気持で、こくめいに眺めまわす。全般的に見て、いやな言葉だけれども、膏がのってきている。皮膚が透けるようなぐあいで、なにかの花びらのように柔らかくしっとりと湿っていて、撫でると指へ吸いつくような感じである。  或る気分としては眼をそらしたい。良人というものをもって半年あまりになるが、そのあいだに自分の躯にあらわれた変化は、これには自分としても衒れて、頬の熱くなることがしばしばあった。  ――いやあねえ。  こう思うのはそのままの実感である。胸乳のたっぷりした重さ、腰まわりのいっぱいな緊張感、痛いほど張った太腿。そのくせ胴は細く緊って、手足も先端にゆくほどすんなりと細い。その膏の乗って肥えた部分と、反対に細く緊った部分との対比が、娘時代とはあきらかに違ったもので、つい頬が熱くなり、眼をそらしたくなるが、じっさいは胸がどきどきし、唆られるようなふしぎな気持で、いつまでも眺め飽かないのであった。 「――ふしぎだわ、女の躯って、……どうしてかしら、ほんとにいやだわ」  いやだと云いながら、しかも一方では、いくら眺めても眺め飽きないのである。